2022-4-16 改定
人道的危機にあるウクライナの子どもたちを救うため、緊急募金を始めました。募金箱は入口近く設置。
いただいた浄財は、ユニセフを通じて現地ウクライナの子どもや、その家族の支援に役立てます。
■神戸文学館企画展■
文豪とアルケミスト×神戸文学館「蘇る神戸ゆかりの文豪たち」展は1月28日から5月22日まで開催しています。どうぞご来館ください。
※企画展の詳細は左上にある「企画展のお知らせ」をクリック。
神戸文学館は、明治37年(1904)関西学院のチャペルとして建てられた由緒ある建築です。
歴史を感じる赤レンガ造りのチャペルの外観をそのまま残して平成5年4月に、尖塔部分も完全に復元し、以来王子市民ギャラリーとして神戸市民に親しまれてきました。
このたび、あの阪神・淡路大震災も乗り越えた、市内に現存する最古のレンガ造り教会建築物が、神戸にゆかりのある文学者たちの息吹を、今に伝える「神戸文学館」として、生まれ変わることとなりました。
神戸文学館は明治以降の神戸にゆかりのある文学者を時代ごとのテーマに沿って紹介しています。
またサロンでは、神戸を愛し、神戸を描いた作家達の作品を自由にご覧いただけます。(入館無料)
平成18年12月4日「神戸文学館」として、内装をリニューアルして開館しました。
正面から見た神戸文学館
南東から見た神戸文学館
ライトアップに映える文学館
満開の桜と文学館
前庭に咲く紫陽花
正面玄関
関西学院発祥の地
記念碑は、創設者ランバスの自筆サイン、吉岡美國 第2代院長の自筆サインと 「敬神愛人」、 ニュートン 第3代院長の自筆サイン、ベーツ 第4代院長の自筆サインと ”Mastery for Service" さらに学院沿革の碑文が刻まれ、旧礼拝堂階段の飾り石が配置
関学を創ったひとたち(関学のホームページから)
1904年10月 献堂式のブランチ・メモリアル・チャペル
関西学院 原田校の航空写真
1910年頃のブランチ・メモリアル・チャペルと校舎ブランチ・メモリアル・チャペルでの講話風景
平成5年4月、設計・一粒社ヴォーリズ建築事務所、建築・新井組により、明治37年(1904)建築当時(110年前の外観)に甦りました。
戦災で失われたままだったチャペルの尖塔や柱頭の飾りを古い写真を元に再現されました。柱頭の飾りは、アカンサス模様でまた梁の根元にも彫刻が施されています。
このチャペルの特徴は、ハンマービーム・トラスと呼ばれる大きなアーチ型の梁を組んで屋根を支えているところです。
スパン10.6mもあり歴史的にも貴重な建築物です。外壁は焼夷弾により焼けた傷跡のあるレンガを一部そのまま使っています。レンガの積み方はイギリス積み(レンガには他にフランス積みアメリカ積み等がある)。
瓦も昔の瓦の色に合わせて、数種類の瓦をまぜてわざと古い感じを出しています。ステンドグラス窓にも大きな特徴があり、色は2種類ですがラムネ色をしています。また窓ガラスにも特徴があり葡萄曼文様の装飾(エッチング)が施されています。窓ガラスの開閉取っ手も、飾り石と同じ模様で造られています。
神戸文学館は、神戸市内に現存する最古のレンガ造りの教会建築としてその優美な姿を21世紀に伝えていくことでしょう。
明治・大正・昭和・平成の時代ごとに、神戸で活躍した作家を当時の風景写真とともに作品や原稿、資料、愛用品を展示紹介しています。
神戸ゆかりの作家として小泉八雲、谷崎潤一郎、横溝正史、賀川豊彦、稲垣足穂、モラエス、竹中郁、遠藤周作、島尾敏雄、久坂葉子、司馬遼太郎、石川達三、林芙美子、堀辰雄、野坂昭如、陳舜臣、妹尾河童、岡部伊都子ら約40人の作品や資料を展示しています。
常設展示コーナー
竹中郁コーナー
岡部 伊都子コーナー
憩いの場所コーナー(香り高いコーヒーを楽しみながらの読書をどうぞ)
ハンマービーム・トラスの天井
葡萄蔓文様の窓ガラスと開閉取っ手
企画展「久坂葉子がいた神戸」の展示コーナー(この企画展は終了しています)
土曜サロン・文学講座
土曜サロン・コンサート
神戸文学館を設計した一粒社ヴォーリズ建築事務所は、1910年(明治43年)創立以来数多く設計建築しています。
今でも現存している建物は、大丸百貨店(心斎橋店、京都烏丸店、神戸居留地38番館)関西学院大学、神戸女学院大学、啓明女学院、同志社大学、滋賀大学、豊郷小学校、近江兄弟社学園、明治学院大学他、フロインドリーブ・パン工房(旧神戸ユニオン教会)、パルモア学院、神戸YMCA、カネディアンアカデミー、六甲山神戸ゴルフ倶楽部のクラブハウス、ヴォーリズ、六甲山荘、その他教会、学校、病院、邸宅等が多数残っています。
海外との玄関口として近代日本の発展に寄与した港湾都市神戸。物流だけでなく、文化や人も世界中から集まる国際的なまちへと発展します。そこで成熟したエキゾチシズムやモダニズムは多くの文人を惹きつけました。谷崎潤一郎、小泉八雲、正岡子規ら文豪とよばれる巨匠たちも神戸に足を踏み入れ、作品の舞台としました。
しかし読書離れが叫ばれて久しい昨今、神戸における文豪の足跡は忘れ去られようとしています。一方、ゲームやアニメの世界で文豪たちはよみがえり、キャラクターとして若い層を中心に浸透しつつあります。今回、130万人がダウンロードしているDMM GAMES「文豪とアルケミスト」の文豪キャラクターを入口に文学の世界へ誘い「文学のまち神戸」の再認識につながればと考えています。
■展示内容
◇正岡子規、高浜虚子
『子規居士と余』初版本等の書籍や俳句、須磨保養院・須磨二人句碑・子規と虚子の写真。
◇夏目漱石
祥福寺の僧と交わした書簡
◇小泉八雲
「コウベクロニクル」の紙面コピー、「心」「仏の畑の落穂」の初版本原書、「生き神様」
をモチーフにした防災テキスト
◇谷崎潤一郎
旧宅「倚松庵」の写真と間取り図
◇横光利一
自筆の色紙、神戸時代の写真・「灘にゐたころ」の灘風景写真
◇堀辰雄
『旅の絵』に描かれた洋菓子店「ユーハイム」の当時の写真
◇江戸川乱歩
『人間椅子』の草稿、神戸人形
◇その他
文豪とアルケミストの公式本、文豪をテーマにした本
兵庫県立兵庫工業高校デザイン科2年生作成の文豪8人の相関図
2022年1月28日~5月22日
小泉八雲の「A living god」(「生き神様」)が原作となった「稲むらの火」。防災教育には欠かせない作品として今なお読み継がれています。 神戸在住だった八雲は、約2万2千人が犠牲となった1896年6月15日の「明治三陸地震津波」の新聞報道にあった、1854年11月5日の「安政南海地震津波」の記事に目が止まります。和歌山県有田郡広村(現在の広川町)で、地震後の津波が迫る中、人命を守るため、濱口儀兵衛は、稲を束ねた稲むらに次々と火を放って目印とし、住民を丘の上の安全な場所へ誘導したという内容でした。
儀兵衛の行動は八雲の想像力を刺激します。八雲は儀兵衛をモデルにした主人公五兵衛が我が身を顧みず人命救助に尽くし、地元で生きながら神として敬われたという物語を創作。「A Living God」と題して「Gleanings in Buddha-Fields」(「仏の国の落穂」)に収録、1897年に米国で出版しました。 「A Living God」は日本で「稲むらの火」と改題され、津波の怖さを伝え、防災意識を高める物語として国内外の教育現場などに広がりました。
モデルとなった儀兵衛は地元で醬油醸造業を営む名家の7代目当主で、本名は梧陵(1820~1885)。八雲の作品とは異なり〝神〟のように扱われることを固辞したといわれています。被災後、梧陵は私財を投じて長さ600㍍、高さ5㍍の防波堤「広村堤防」を築造、被災者用の住宅も建設するなど復旧作業に尽力しました。その後、政治家に転身した梧陵は、初代駅逓頭(現在の郵政大臣)、初代和歌山県議会議長などを歴任。米国視察中にニューヨークで客死します。
その死から約60年後、1946年12月21日に昭和南海地震が発生します。再び大津波に襲われますが、「広村堤防」に守られた地域は無事でした。
1885年、梧陵が「広村堤防」を手掛けた際、残した言葉があります。
「是此の築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所以なり」。
「広村堤防」に込めた梧陵の信念は、再び人命を救いました。現在、国史跡となり、郷土の防災シンボルとなっています。(館長)
何処ともあてどもなく歩いてゐると、ふと関西学院の前へ出たりした事があつた(中略)迷ひ込んだその辺りの露地には、思ひがけない花園があつたり、そこで西洋人の少女達の群れ遊んでゐるのを、日光に照らされた花壇の隙間から覗いて見てゐた事などもある。学院の中へまだ一度も入つた事はないが、外から美しい学校だといつも思つた。(横光利一「灘にゐたころ」)
「大正9年10年のころ、私は西灘で暮したことがある」という文章で始まる「灘にゐたころ」に当時の関西学院が描かれています。 原田の森は、原田神社に向かって緩やかなのぼり傾斜なっており、大根畑が広がり、民家も数件しかありませんでした。そんなのどかな田園風景の中に、1889年に関西学院が開校、西洋風の校舎群、礼拝堂などが建てられました。敷地内に外国人教師の住居があり、芝生の上で外国の子どもたちが遊ぶ姿は関西学院の風物詩だったそうです。
今回の企画展で横光が見た風景に近い写真を神戸市文書館から借用できました。明治末か大正期の写真とされ、現在の神戸文学館を中心に上筒井側から撮ったものです。
古い写真は情報が少なく年代の特定が難しいのですが、手元にある資料から撮影時期を割り出してみました。
まず、礼拝堂の左には神学部(1912年完成)、1914年に完成した正門の柱も見えます。1922年に文学部校舎が神学部の前に完成しますが、この写真には見受けられません。文学部校舎の着工は1921年ですので、撮影時期は1914(大正3)年から1921(大正9)年の間となります。横光が灘に滞在して時期と重なります。関西学院が横光の目に留まり、作品の中に描かれたことで私たちは100年前のことを今でも追体験することができます。 (学芸員 北村暁子)
小泉八雲と夏目漱石の共通点を御存知でしょうか。2人とも熊本の第五高等学校(現熊本大学)と東京帝国大学(現東京大学)で教鞭を執ったことです。同時期に在籍していませんが、1903年4月に東京帝大講師となった漱石は、八雲と入れ替わりでした。
当時、海外の文壇にも知られた八雲は、松江時代と同じく「ヘルン先生」と呼ばれ、英文学の講義は学生に大人気でした。一方、八雲より17歳下の漱石は、俳誌「ホトトギス」に投句する程度。学生による八雲留任運動も起っただけに、着任した漱石への風当たりは強烈でした。漱石の教え子で、英文学者の金子健二は、当時の様子を『人間漱石』(1948年)に記しています。「夏目講師の『英文学概説』は日本語で講義されるのであるが、ヘルン先生の英語で講義された時よりも遥かにノートをとるのに骨が折れた。(中略)英文科生は皆夏目先生の授業に辟易してゐる」 漱石の思いも深刻でした。東京帝大講師として文豪八雲の後を継ぐと分かった時の様子を、妻鏡子は後に語っています。「自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜にすわったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」(夏目鏡子述 松岡譲筆録『漱石の思い出』1928年)
1907年、作家業に専念するため東京帝大を去りますが、八雲への畏敬の念は終生、変わりませんでした。漱石と親交のあった英文学者、俳人の大谷正信は自著「滞英二年 案山子日記」の献辞を松江尋常中学校、東京帝大の恩師八雲に宛てました。献本を受けた漱石は「いまだ日本の著者にて八雲先生に捧げたものは一つも無之大いにうれしく存候」(1913年1月11日付)と返事に書いています。また代表作『三四郎』(1908年)に「死んだ小泉八雲先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此周囲をぐるぐる廻つてあるいたんだ」と登場させました。
「日本には、確かに新しい大衆文学が必要とされるだろう。(略)すすんで大衆に母国語で話し、何百万もの人の心に触れようとする学者か、少なくとも文芸を解する人によって供給されねばならない」(小泉八雲『創作論』)と願っていた八雲。その遺志を継ぎ、日本の近代文学を確立したのは〝後任〟夏目漱石でした。(学芸員 後中友里恵)
作家江戸川乱歩の誕生に、かつて世界に名をはせた神戸の総合商社「鈴木商店」も一役買っていました。
乱歩は、早稲田大学時代に推理小説家エドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルに熱中し、原書、翻訳を読み漁ります。漠然と作家を志して執筆を重ねますが、発表する機会は得られずじまいで卒業。その後、転々とした職のひとつが「鈴木商店」傘下で、三重県の「鳥羽造船所」でした。
1917年11月、乱歩は父の知人の紹介で同造船所電機部に就職。庶務課に配属され、社内誌『和合』の創刊編集や、地元との交流を図る「鳥羽おとぎ倶楽部」の設立などを手掛けました。また、友人と乗っていた車が峠から転落して死にかけ、後に妻となる村山隆子と知り合うのも鳥羽の地でした。
「風光明媚、暖かい南国、好景気来襲間際、常にのんびり遊んでいたような勤めであった」と自伝『貼雑年譜』に記しています。「会社を休んで自室の押し入れの中に寝ていた」、「庶務の仕事なんか少しもしないで、工場管理の洋書を買っては毎日それを読んでいる」と勤務態度は少々難があったようです。しかし社内誌や地域活動には精を出し、また文学や哲学の話をする乱歩を気に入った上司などのとりなしで、事なきを得ていたようです。
気ままな鳥羽造船所時代は乱歩の好奇心を刺激します。会社をさぼって自室の押し入れにこもった体験は探偵小説『屋根裏の散歩者』(1925年)のヒントとなりました。また代表作『パノラマ島奇談』(1926年~27年に雑誌「新青年」連載)の舞台は、乱歩が職場の庶務課の窓から眺めていた鳥羽湾の島々と言われています。
わずか1年4カ月在籍した鳥羽造船所について乱歩は「この鳥羽での一年余りの生活が一番面白かった」(前出)と述懐しています。退社後、上京した乱歩は古書店などを経て1923年に『二銭銅貨』で作家デビューを果たします。
その後の1921年、鳥羽造船所は、鈴木商店から傘下の神戸製鋼所に譲渡されます。1949年には「神鋼電機」となり、新幹線、ジェット機、ロケットなどの部品を製造。2009年に「シンフォニアテクノロジー」と社名を変更、現在に至っています。
乱歩の〝ゆるいサラリーマン生活〟を許した鳥羽造船所は、結果的に日本を代表するミステリーの巨匠を生み出します。鳥羽造船所の懐の深さは、1927年の鈴木商店破綻後も生き抜き、創業100年以上の老舗となった秘訣かもしれません。(館長)
日本時間の3月28日、濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」が第94回米アカデミー賞国際長編映画賞を受賞しました。神戸ゆかりの作家村上春樹の作品が原作でしたので、神戸文学館では、ノミネート時からサロン奥に原作や映画パンフレットを並べたコーナーを設置。受賞を心待ちにしていただけに感動もひとしおでした。
映画の中で存在感を放つのが主人公の愛車「サーブ900」。スウェーデンの航空機メーカー「サーブ」が製造した車で、1960年代末から90年代まで販売されました。航空機のフォルムを応用した独創的なデザインが特徴です。映画では赤色の「サーブ900ターボ」が風景に映えていたのが印象的でした。
一方、原作では黄色の「サーブ900」のオープントップでした。作品の中で村上は「サーブ900」について「信頼できる車ですよ。この時代のスウェーデン車ってなかなかしっかり作られているんです」と修理工場の経営者に語らせています。頑丈で機能的な「サーブ900」は、主人公が12年間乗り続け、10万キロを走った愛着を持った車です。そして車体は「妻が選んだ」黄色でした。
そのためか主人公は「妻の死後、何人かの女性と交際したが、彼女たちを助手席に座らせる機会はなぜか一度もなかった」と述べています。この車には妻との思い出が色濃く残っており、無意識のうちに他人を乗せることを拒んでいたのです。
そんな愛車の運転手に渡利みさきを雇うことから物語は始まります。主人公の自身ともいえる車内に他者を受け入れることで、閉ざされた心を少しずつ開放していく過程が丁寧に描かれています。ハンドルを自分以外の手にゆだね、会話を重ねるうちに主人公は自分の痛みである生前の妻の浮気と向き合い、妻にさえ閉ざしていた自分の心に気がつきます。
愛車「サーブ900」は妻を亡くし心を閉ざした夫の“精神世界”そのものだと思います。今以上に傷つくのを恐れて他者を拒絶するのではなく、扉を開け他者と対話することでしか前に進むことができないというメッセージが込められているようでした。
アカデミー賞受賞の特設コーナーに黄色い「サーブ900」のミニチュアを展示しました。原作を読みながら「ドライブ・マイ・カー」の世界に心をはせてみてください。(学芸員 北村暁子)
1895(明治28)年5月、神戸病院に入院した正岡子規の下へ看病に駆けつけたのは、愛弟子の高浜虚子と河東碧梧桐でした。後に俳句界の双璧となる2人を子規は「碧梧桐は冷やかなること水の如く、虚子は熱きこと火のごとし。碧梧桐の人間を見るはなお無心の草木を見るがごとし、虚子の草木をみるはなお有情の人間を見るがごとし」(正岡子規「文学」)と評しました。
2人とも愛媛県・松山の同じ中学校に通っていた同級生。ともに進んだ京都の三高時代は、下宿を「虚桐庵」と名付け同居したほど意気投合していました。碧梧桐は「虚子と私との交際は、中学に入ってクラスを一処にしてからであった。クラス中の有志で、回覧雑誌のようなものを始めてから、その有志の中でも親しい仲になった」(河東碧梧桐『子規を語る』)と記しています。
しかし、虚子と碧梧桐の間に〝事件〟が起こります。神戸・須磨で療養中、死期を悟った子規は、独断で後継者となることを虚子に要請。また97(明治30)年、碧梧桐が心を寄せていた女性が、虚子に嫁ぎました。心穏やかではない2人でしたが、1902(明治35)年に子規が亡くなるまで支え続けました。
子規の没後、碧梧桐は季語や定型に縛られない新傾向俳句へ進み、さらには自由律俳句へと転向します。一方、虚子は俳句から遠ざかりましたが、碧悟桐に対抗するため俳壇に復帰。子規が守った伝統俳句を堅持し、俳壇に君臨する存在となります。33(昭和8)年、還暦を迎えた碧梧桐は俳壇からの引退を表明。37(昭和12)年に63歳で病死します。
碧梧桐の死を悼み、虚子は「たとふれば独楽(こま)のはぢける如くなり」と詠みました。回る二つの独楽は、ぶつかって遠ざかり、また近づいては弾き飛ぶを繰り返します。親友であり、好敵手だった虚子と碧悟洞の関係を端的に表現した秀句だと思います。(学芸員 後中友里恵)
6月 4日(土) 午後2時~3時半
明治以降の小説家は、芸術や工芸と密接な関わりを持つ内容を好んで作品に取り入れはじめます。探偵小説作家で神戸出身の横溝正史(1902~81)と、工芸に取り組む女性をテーマに多くの作品を書いた芥川賞作家、芝木好子(1914~91)を中心に、小説家に重要なインスピレーションを与えた芸術・工芸の魅力に迫ります。
6月18日(土) 午後2時~3時半
日本六古窯の一つ丹波焼の里、丹波篠山市・立杭地区に、現存する最古の登り窯があります。1895(明治28)年に築かれ、兵庫県指定有形民俗文化財、文化庁認定の日本遺産、その築窯技術が国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財で、現在も使用されています。丹波焼のシンボルですが、経年劣化と阪神淡路大震災で損傷を受け、2014年から15年まで大規模な修復工事を実施。復活までの過程を、当時、登窯修復実行委委員長の大上氏に話していただきます。
令和4年5月14日(土) 午後2時~3時半
日本のジャズ発祥地である神戸では、官・民が幅広く連携して「ジャズ」と「神戸の街」が一体となった様々な取り組みが行われています。「ジャズは何だか敷居が高いなあ」。いえいえ、そんなことはありません。トークをまじえて、時代や音楽ジャンルを超えて愛され続けているさまざまなジャズ・ナンバーをお聴きいただきながら、理屈抜きにスイングしていただきます。
定員40人 申込先着順 参加料:200円
令和4年5月21日(土) 午後2時~3時半
企画展「蘇る神戸ゆかりの文豪たち」の記念イベント。結成15年目の朗読とピアノのデュオ「アサクル」を迎え、小泉八雲の怪談話をお楽しみみいただきます。八雲の妻だった小泉セツの生涯も紹介しながら、不思議で怪しい、時に切ない八雲の怪談の魅力をお届けします。
定員40人 申込先着順 参加料:200円